知らずに相手を判断することと院政
部活改善のために幹部と話していたときのことをふと思い出した。
下級生に対する不満を聞いていた時のこと。
「言うこと聞かんし、自分たちのすべき役割も忘れるしやる気ないんですよ。どうでもいいと思ってる。」
「それって本人達から聞いた?やる気ないって。」
「いや聞いてないですけど。見てたら分かりますよ。」
うちの部はいつからかわからないが入部した当初から権力関係がおかしかった。もう運営に責任のない幹部終わりの学年(隠居と、最近まで呼ばれていた)が幹部学年のやり方にあーだこーだと口を出し、主体性のなくなった幹部達が方向性を見失い、そこをまた指摘する。
僕はそれを院政と呼んでいた。日本史の後鳥羽上皇のやつ。我ながら一言で表すいい名前だった。
世間を見渡してもありえない権力関係がうまくいくはずもなく、その弊害の一つとして隠居が幹部学年の表面的な部分のみを見てこそこそと判断する文化ができあがった。
それが冒頭の会話に繋がる、と思っている。
正直他の組織に深く加入したことはないので比べてこの文化がうちで特異度が高いかはわからないが原因の一つだと考えている。
参考にした複数の本に、相手を知らずにその中身や言動の理由を判断することは自分にとって無駄でありお互いのメリットになることはないと書かれている。
Twitter上での誹謗中傷や多目的トイレで致した芸能人やら、みんな何を知った上で判断しているのか。
自分の生活に置き換えても、言葉にするとありきたりだが、相手に本心を聞き、本心で話すことで真に信頼し合えることは多い。ある程度の距離感でいいならそこまでする必要はない。
ただ少なくとも「知らないけど絶対こうだ。」と判断することはしないようにしている。
テンプレ
4、5年前、KさんやAさんの会話
「集合で言うこともうあんまりないわ。テンプレ言っちゃう。」
「でもテンプレって大事やからなあ。」
「たしかに。」
標準治療と一緒
積み重ねてきた成果の抽象化がテンプレ
下手に民間療法に手を出すのではなく標準治療、つまりテンプレが最強
追いコンでちょっと先生方を持ち上げるときに言う
経験は宝物。だからたくさん持ってる先生方の話、経験、意見は重視すべき
無題
常に意識していること
・正しい知識がなければあり得ないことで埋め立て、ありえない論理から突拍子もない答えを導き出してしまうこと。また、経験にも大きく頼り強い実感を理由に根拠とするようになる。
・自分の影響力を考える
そして
・知識(経験)→抽象化→転用
・組織は人とシステム
これらは相互に影響し合っている
システムは人の行動を形作る
人はその経験を蓄積していく
経験を根拠に現存するシステムを正当化していくのは簡単
システムを変える方が簡単だがそこに人の経験を根拠とした正当化が邪魔してくる
システムをなんとか変えれば人の行動も外的な力によって変わらざるを得ない
ただ、真に変わるにはシステム変更の合意が必要かもしれない
経験は正当化してしまいやすい
部のシステムや文化を変えようとしたときに最もぶつかったのは最上級生
彼らが最も苦労し、多くの経験があるから
が、想像以上に下級生からも反対があった
反対というか変わることや自分がしてきたことを否定されたくない気持ちだったのかもしれない
もちろん、経験は敵ではない
知識(経験)→抽象化→転用
で述べたように一生使える武器になる
使い方次第で良くも悪くもなる
その経験やそれを根拠に生み出した答えが正しいかどうかどうやって判断できる?
MRくんはビジネスだから取り入れるのは難しいと言ったが大間違いだ
人の集団の成功のためには、人類で培ってきた組織学や集団心理学などを始めとするビジネスに学ばず何に学ぶ?
君の頭の中で考えたものが、Hさんと異なるものだとどうやって判断する?
何を根拠に正しいと言える?
なぜ上級生だけでなく下級生ともぶつかったのか
焦っていた
5年の終わり、もう6年になる
コロナが迫り確実に部活動、ミーティングは出来なくなる
自分がしたかったのは3ステップ
①まず理想を共有すること
②そして実現可能な具体案を示すこと
③全員とさらに具体案を挙げ実現していくこと
焦りで①理想の共有に重きを置きすぎ、実現可能な具体案を示すことが少なかった
②の初めを幹部と共有するところで終わった
これでは理想を言うだけの「野球中継に文句を言う親父」に見えても仕方なかったと思う
そこは反省
今後の人生にこれだけ情熱を捧げることができることがあるだろうか
そこは心配
レペゼン地球の最後の動画から感じた情熱とビジネスの大切さで自分は正しいと実感した
中山先生の言うように自分の選択は正しかったんだとあとから死んでも努力して結果を捻じ曲げればいいか
もののけ姫 感想
オープニング曲の「アシタカせっ記」が大好きでいつか映画館で再上映してくれないかなぁとまあないだろうと思いながら望んでいたら、まさかコロナで再上映が決定された!
情勢が落ち着いた頃に見に行きました。
子供の頃に見た時と全然印象が違う。
昔は獅子神は死んで森もなくなって、でも新しいこだまが生まれてて人間達もなんとかやっていってめでたしめでたしと受け取っていましたが、そんなに簡単ではありませんでした。
まず勢力的にはたくさんあったみたいですね。
まずもののけ勢。これも一括りにできず、モロの一族、乙事主の一族、獅子神などがいます。
乙事主は作中で「鎮西から海を越えてきたのか」と言われていたので九州から来て、舞台は本州のどこかと考えられます。小さくなる一族を守るため、シシ神を中心に人間を殺すことが目的でした。
人間側は、エボシの国、ジコ坊率いる天皇からの勅命部隊、侍の敵国などがいます。物語終盤でエボシの国が攻撃されていたのは序盤に女達が無礼に追い返した侍の国からだったんですね。知りませんでした。
印象に残るセリフが2つあります。
アシタカが受けた呪いの元になったのは、エボシ率いる石火矢衆によるものでした。エボシと対面し痣を見せ、「曇りなき眼(まなこ)で見定めに来た。」と怒りを抑えながら言い放つアシタカにエボシは大笑いします。
自分の眼は曇りがないと思っている、自分は何も知らないことを知っていて知ろうとしている、青いが洞察があるとアシタカを認めたのでしょう。
そして誰にも見せない自分の庭へ案内します。
ここは割と有名ですが、おそらくハンセン病患者を収容し例の石火矢や武器の開発を行わせているのでした。
また庭に来る前に、自分に理解を示してくれたトキが溶鉱炉の作業に従事している様を複雑な表情で見つめていましたが、帰りにはそれを手伝うシーンがあります。
自分が受けた面だけでなくあらゆる人の状況があると知りどう思ったのか、たたら場にいる人たちも自分のしていることの結果を知るべきだと思ったのではないかと思います。
もう一つは、有名なシーン、エボシとサンが広場で争っている時に中二的に右腕がぐわぁってなって「見ろ!これが...」と言ったあとエボシが「賢しらに僅かな不運を見せびらかすな。」と言ったシーンです。
自分の身一つの不運で全て知った気になるなよ若いの、と言った意味でしょう。
見返せばエボシが一番好きなキャラです。理想があり、みんなに実現可能な手段でそれを見せてくれる。
映画ドラマはほとんど見ませんが、これを機に週一か月一で見てもいいなぁと思うようになりました。
あと神道も調べてみたいですね。日本人と外国人がこれを見た時に受ける印象は違うようでそこには土地や物に神が宿るといった神道が関わっているように思います。
本読んで神社行きたいなぁ。
成し遂げる時に邪魔なのは怒りの感情
自分がどんなに誠意を込めて改善を訴えても、思考停止して切り捨てられたり、理解したフリをして無視したりされることはある。
1兆ドルコーチのモデル、ビル・キャンベルはアメフト部の経験からコーチングに関わるようになったという。
僕も部活での経験から人を動かすことがどんなに難しいか、また変わっていくこと自体の達成感とその結果ましな組織になることのよさを感じ、医療界でも活かせるのでは?と考えたことがあった。今でもできればと思っている。
僕の経験は非常に小規模なものではあるが大切な要素はかなり網羅していると確信している。
常々注意していたのは「コミュニケーションは効果的であること」だ。
つまり、むかついて喚き散らして良い方向に行くのか、あるべきゴールと方向性を具体的に示しそこにたどり着くまでの道筋を実現可能なものとして理解させてやれるか、である。
そこで邪魔になったのは「怒りの感情」だ。
はじめに述べたように、手強いのは、思考停止した人、自分の意見に固執する人(これも一種の思考停止である)などだ。
そんな人と話をしているとどうしても怒りが湧いて罵ってやりたくなる時がある。
それは「効果的なコミュニケーション」ではない。それはわかっているが感情は時に「反応的に」出てきてしまう。
最終的には、声を荒げることもなかったが、自分の中で、怒りvsここで感情的になってはいけないという思いの戦いが思考を何割か割いて、効果性が落ちるコミュニケーションであったと思う。
だから現時点で尾身茂先生のように穏やかな人柄を持ち、環太平洋地域のポリオを撲滅できるほどの影響力を持つことはできないと思った。
尾身先生は現在、新型コロナ対策分科会長を務める、いわば医療界でのコロナ対策のトップである。著者「WHOをゆく」にはポリオ撲滅を始め世界中で人を動かし成果を上げてきた先生の半生が語られている。
実はもっと武勇伝を期待したのだが、やってやった、あいつらむかついた、などのニュアンスの表現が全くなく比較的無味乾燥な作品である。
そこに先生の、マイナスの感情に動かされない人間性が表れていると思う。この感想はいずれ書きたい。
岩田健太郎先生の著書も数冊読ませていただいた。「感染症パニックを防げ-リスクコミュニケーション入門-」に同様の話が載っているが、岩田先生は比較的怒りを持ちやすくそれに影響されやすい人だと思う。というよりも僕も同じようなものでそれが普通ではないかとも思う。
むしろ尾身先生の方が超人的だ。
現時点では尾身先生のようになれない、と言ったが現時点では、だ。
この1年前程度まで思考停止していた僕がここまで成長できた(と自分では思っている)のだからいくらでも変われると思っている。
怒りを生む刺激から反応的に怒りが生まれる、その刺激と反応のスペースに何があるか意識することを何年も繰り返せばきっと反応的にすら出なくなることを期待したい。
思い出し反省 転科してきた精神科医
実習で内科を回っていた時に精神科から移ってきた先生がいた。その先生は内科的な疾患を学びたいから勉強のためにきていたそうだ。
しかし、上級医からの指導内容が国試対策の動画レベルであり移ってきてどれくらいかは知らないが仮にも内科として働いているのだから僕なら国試程度は復習してから臨むだろうと、計画性のなさにこれで診療しているのかと正直多少ひいた。
働いてから違う科に行きたい気持ちはとてもわかるし、それを実行する勇気も素晴らしいと思う。ただやはり計画性と責任感のなさからこの人とは関わってもメリットはないかなと思ってしまった。
でも、どうやら上の先生達からすれば今の国試対策の教材は相当に作り込まれているらしい。おそらく20年程度昔の国試教材を覚えていたならもしかしたらそれで勉強する発想はなかったのかもしれない。話しかけられた時に教えてあげればそのコミュニケーションの中で、その先生がどんな経緯で移ってきたのか、どんな目標があるのか聞けたかもしれない。お互いのメリットになった可能性がある。
一部分だけを見て判断することは、情報の取捨選択をし素早い決定には大事ではあるが、他人とコミュニケーションをとらないと判断するには焦燥だった。